空気の恩恵と脅威

普段我々が何気なく吸っている空気。目に見えず匂いもしないし触れている感触もあまりない。。意識しないとその存在は忘れがちですが、少し勢いをつけて手を振ったり、バットなど棒切れを振り回すとビュンと音がしてその存在感を少し表します。空気は酸素や窒素などいろいろな気体が混ざった混合物として地表面の100kmくらいの厚みの中にうっすらと存在する一種の流体ですが、空を飛ぶ機械にとっては最も気を遣わなければいけないある種とても気難しい存在です。

空気は飛行機械など物体との相対速度の大きさによってその振る舞いが大きく異なります。いわゆる空気の音速(地表では約340m/s)の75%以下の亜音速と呼ばれる速度領域において空気はとても友好的です。人間が発明した翼(Airfoil)と呼ばれる流線形状をした装置を空気の流れの中に置くと、翼の上面と下面の圧力差により揚力と呼ばれる上向きの力と抗力と呼ばれる後ろ向き(流れの方向)の力が翼にかかります。翼など飛行機械には質量があるため地球の中心に向かって重力を受けます。地上ではこの重力と地面の反力とが釣り合うことで飛行機械は地面に対して静止しています。一方空中では、飛行機械にかかる重力が先ほど述べた揚力と釣り合うことで飛行機械は一定の高度で静止することができます。揚力を得るためには空気に対して相対速度を持っている必要がありますが、当然ながら風に流され(抗力を受け)続けるといずれ飛行機械は空気の流れと同じ動きをするようになり相対速度はゼロになります。こうなると飛行機械は高度を維持できず地表へ真っ逆さまに落下してしまいます。この空気との相対速度を維持する(空気から受ける抗力と釣り合わせる)ためにはプロペラやジェットエンジンなどの動力装置による推力(飛行機械を前へ押す力)が必要となります(グライダーなど重力を使って降下速度を一定に保ちながら滑空する無動力の飛行機械もあります)。これら4つの力(揚力、抗力、重力、推力)をバランスさせてうまくコントロールすると飛行機械は地上から空気の力で浮き上がって望みの方向や速度で飛ぶことができます。この4つの力の内、空気力である揚力と抗力は亜音速域においては比較的その挙動を予想しやすく、簡単な手計算レベルでもある程度その大きさを見積もることができます。プロペラを使った航空機やヘリコプタ、ドローンなどは大抵この速度域で活躍しています。

一方、ジェット旅客機や戦闘機などに適用される遷音速とよばれる音速の75%~120%あたりの速度域においては、空気の圧縮性の影響が粘性の影響よりも大きくなってきます。物体と空気の相対速度が音速に達すると衝撃波(Shock wave)と呼ばれる空気の密度や圧力、温度が不連続に増大する層(波面)が飛行機械の周りに発生し始めます。(衝撃波の物理的な挙動については非常に複雑でそれ自体研究テーマとして大変興味深いものですがそれはまた別の機会に議論したいと思います。。)なお、空気と飛行機械との相対速度が音速以下だからと言って安心はできません。空気と飛行機械の相対速度が音速以下でも翼の上面などの一部の領域では局所的に流れが音速を超える場合があります。衝撃波が発生することで、機体への抗力が非線形的に増大し、一方で揚力は減少、最悪失速(衝撃波失速)により墜落という致命的な状態に致ります。また、高速の気流や衝撃波に起因する様々な振動的挙動は飛行機械に破壊的な結果(バフェッティング、バズ、フラッターなどによる機体の空中分解)をもたらすようになります。これらの事象は理論的に予期するのがとても難しく、風洞試験や実際に飛行機械を飛ばして健全性を確認する方法を取ることが多いようです。このように、今まで亜音速域で通用していたエンジニアリングのルールやノウハウが遷音速域になるとことごとく通用しなくなっていきます。翼の断面形状や平面形を見直したり、胴体形状を変えたり、尾翼位置を見直したり。。音速を超える世界においては亜音速の世界とは別の技術的対応を必要とします。また、遷音速の領域は音速以上の領域と音速以下の領域が機体の周りで入り混じって存在しています。このため空気は非常にトランジェントで不安定な挙動を示します。外気圧を用いて計測する高度計や速度計などの計器の挙動も怪しくなり、機体の制御も難しくなります。そのため、音速以上で飛行できる戦闘機などはなるべく音速前後の領域は早く通過して比較的衝撃波の挙動が安定する音速の1.2倍以上の速度域(超音速域)まで一気に加速するようです。

超音速域(音速の1.2~5倍)では、衝撃波による造波抗力も大きいためそれに抗うべく強大な推力をもつジェットエンジンが必要となります。さらに高速空気の衝突により物体はことごとく加熱(空力加熱)されるため、アルミ合金などの金属では高温で強度が低下し使用に耐えられなくなってきます。そのため重量が嵩みますがチタン合金やインコネルなどの耐熱性の高い金属を使用する必要がでてきます。エンジニアは衝撃波やそれにまつわる不安定振動などに対応しつつ、この空力加熱による機体の熱膨張・熱応力・材料強度低下・電子機器等の断熱などにも対応する必要があります。ちなみにこの領域で活躍する飛行機械は、高性能な戦闘機や偵察機・超音速ミサイル・昔流行った超音速旅客機などになります。

戦略偵察機SR-71:超音速飛行のため機体構造の93%がチタン合金製とのこと

超音速域のさらに上には極超音速域(音速の5倍以上)という世界がありますが、このあたりに来ると機体に超高速で衝突する空気はもはや普通の気体としては存在できなくなります。空気は衝突時の高温高圧により気体分子が電離してプラズマ状態になってしまうようで、その取扱いは困難を極めます。。空力加熱もすさまじく、並みの金属では耐えられません。この領域では断熱性の高い耐熱タイル等のセラミックス材料や、シリコーンアブレータ・コルク等燃焼時の気化熱やガスで冷却・断熱を目論んだ材料等を機体表面に張り付けて難をしのぎます。また、プラズマが機体を覆うと通信電波が使えなくなり外部との通信がまともにできなくなります(通称ブラックアウト:退役したスペースシャトル等一部の機体はブラックアウトを回避する仕組みが備わっているようですが、通信アンテナ等はまだ発展途上のようです)。この間、ロケットやリエントリーカプセルなど中にいる人間はとても不安な気持ちに晒されることと思います。ただこんな状況におかれるのは宇宙飛行士やロケット推進で飛行する特殊な任務のパイロットに限られると思いますが。。

空力加熱により損耗したリエントリーカプセルのアブレータの例

上記のように、相対速度が上がると飛行機械への空気の影響はネガティブな要素が増えていきます。しかしこのような超音速の空気により生じる衝撃波を逆に利用してしまおうという画期的なエンジンが存在します。スクラムジェットエンジン(Supersonic Combustion RamJet Engine)がそれで、超音速の空気をインテーク内で圧縮し燃焼効率を高めることを目論んだ非常に技術的にチャレンジングなエンジンです。ただ一つ悩ましいのはこのエンジンは超音速領域でしか動かないので、この速度域まで機体を加速するために別のエンジンがもう一つ必要なことでしょうか。。

空気との相対速度ゼロ・1気圧という地上の楽園から飛行機械を加速し、亜音速・遷音速・超音速・極超音速の壁を突破して垂直上昇してみましょう。地上との交信もできなくなり不安を感じながらも、厚み100kmほどしかない薄い大気の層を突き抜けるとそこは皆さん憧れの(?)宇宙空間と呼ばれる領域になります。そこに到達するころにはおそらく飛行機械の速度は音速の23.5倍(8km/s)以上、気圧はほぼゼロの真空。空気はほぼありませんのでやっかいな衝撃波や空力加熱・機体の異常振動などに悩まされることもありません。かわりに空気がないのでエンジンを使うためには燃料以外に酸素は自前で用意する必要があり燃料タンクが大変嵩張ります。翼やエアブレーキなどは使えませんので加速や減速、方向転換するときは都度スラスタを噴射するか、要らないものを分離(行きたい方と反対側へモノを放り投げる等)します。放出するガスや物体(質量)がない場合はもう自分で身動きはとれません。ひたすら助けが来るのを待ちましょう。残念ながら助けが来ない場合、あなたはやっかいなスペースデブリとして人々に迷惑がられながら地球の周りを半永久的にぐるぐる回り続けることになります。また、熱くなったエンジンや電子機器は冷却する必要がありますが、宇宙では空気による対流がないため空冷は使えません。地球や太陽と反対の方を向いてひたすら放射冷却で冷えるのを待ちましょう。空気のバリアもないため紫外線や放射線も地上より強烈。人間などもってのほか、こんな環境で生きていられるのはクマムシくらいです。ほら、空気の存在が恋しくなってきたでしょう。やや窮屈ですが生命維持装置が備わったリエントリーカプセルに乗れば地上への帰還はあっという間です。。

地球に帰還したリエントリーカプセルの例:
空力加熱により表面が焼け焦げているように見える